1954年3月1日午前6時45分(現地時間)アメリカが太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆「ブラボー」の実験で公海上にいたため被爆した第五福竜丸(江東区夢の島公園内の展示館)を訪ね、乗組員だった大石さんからお話を伺ったことがあります。
<時代背景>
1945年8月15日に日本は太平洋戦争でアメリカに降伏し、終戦を迎えました。その後、日本はサンフランシスコ講和条約で形式上独立国とみなされましたが、依然としてアメリカ軍は駐留したままでした。日本はアメリカ軍の植民地状態だと感じた人も多かったようです。国民の生活は戦時中より厳しいものでした。食料は乏しく、米10㎏のヤミ値は400円(当時の1ヶ月の給料は540円程)をつけ、インフレが進行していました。言論・新聞・宗教、および集会の自由を制限されていました。もちろん原爆報道の自制も促していたのです。多くの国民は、広島・長崎の原爆投下について本当のことをあまりよく知らずにいたそうです。第五福竜丸事件が起きたのは、そのわずか9年後の1954年3月1日のことです。
<事件が起こるまで>
かつての船名を「第七事代丸(ことしろまる)」というカツオ漁船でしたが、老朽化したため、赤道付近の静かな海域でのマグロ漁なら耐えられるということで「第五福竜丸」として改造されました。わずか5航海、約1年で被爆することになってしまいました。実は、第五福竜丸は本来、赤道付近で主にキハダマグロを獲っていました。しかし、今回の航海では乗組員23人を乗せて、高価で美味しい魚を求めてミッドウェーへ航路を変更したのです。思ったように魚も獲れず、縄も半分失くしてしまい、明日にでも日本へ帰ろうかという時に悲劇が起こりました。
<乗組員が見たもの>
3月1日の午前1時半頃、ビキニ環境の東方約160㎞で縄を海に入れ始め、3時半頃入れ終わりました。魚が食いつくまでの約3時間は体を休めていました。その時、赤とも黄色とも言えない色の光が西の空に見えました。それは、水平線上にお椀を伏せたような形に夕焼けの色がゆっくりと流れたようでした。まるで、どでかい太陽が落っこちてくるようでした。光を見てから7〜8分後音が聞こえました。爆発音ではなく、地鳴りのような音が1回きりでした。その15分後位に夜が明け、入道雲が見えました。なぜか、その雲は風下にあるはずなのに、風上に当たる第五福竜丸に向かって流れてきました。1時間半後に今度は白い粉(灰)が降ってきました。その量はデッキに足跡が付く位、大量でした。後にわかったことですが、灰は雲とともに上空にあるジェット気流に乗り、降り注いできたのです。そして、この灰には爆心地と同じ量の放射能が含まれていたのです。
<乗組員の体に異常>
乗組員の大半は食欲不振、頭痛、吐き気、目の痛みを訴え、灰が当たった箇所は水疱になり、痛みを伴いました。数日後には乗組員の顔は一様にどす黒くなってきました。急遽、母港の静岡県焼津に戻った第五福竜丸の乗組員の多くは顔に火傷があり、脱毛に悩んでいる人もいました。診断の結果、全員が重い放射能症にかかっていることがわかり、即刻、東京の大病院に移されました。このことは、奇妙な火傷を負った乗組員のネタをつかんだ読売新聞が、3月16日の紙上に「死の灰」という見出しをつけ、被災者の談話、病院の診断結果、福竜丸の写真などあますところなく載せました。この大スクープに日本中が驚きました。・・・・次号に続く(Y子)