神奈川県横浜市、銀杏並木の緩やかな坂道を上る慶應大学日吉キャンパスに地下約30mの深さに掘られた全長約1200mの「戦争遺跡 日吉台地下壕の連合艦隊司令部」があります。地下壕の入り口から急な坂を下ると平坦になり、通路は幅4m・高さ3m、壁の厚さは45cm位、中は区切って部屋にしています。戦争でコンクリートが不足し、焼け野原となった田園調布の石垣や塀の大谷石を利用しました。また、空気の流れが毎秒1mとなるように地形・高低差などを考慮し、計算されているため、地下30mの広大な地下壕にもかかわらず、空気の薄さやよどみはありません。●地下壕の内部には
様々な部屋が作られていますが、食糧倉庫には敗戦間近でさえ、高級ブランデーなどが並んでいたそうです。中心部には電信室、暗号室、作戦室があり、ここでは蛍光灯が使用され、室内は昼間のように明るかったそうです。停電に備えての発電機室など多くの機能を備え、当時としては珍しい水洗式便所もありました。また、地上の寄宿舎にあった「地上司令部」とをつなぐ126段の階段があり、空襲などの緊急時には書類を抱えて駆け下りたそうです。
●時代背景
海軍がミッドウェ−海戦やマリアナ沖海戦で主要な戦艦や航空母艦を失い、戦況が悪化する中、連合艦隊の旗艦大淀は1944年2月頃から千葉県木更津沖や瀬戸内海の柱島に碇を下ろし、全軍を指揮していました。しかし、大淀を戦力として活用するため、陸上での指揮の場所として日吉の慶応義塾大学が選ばれ、海軍省と慶応義塾とで賃貸契約が結ばれました。そして、日吉で巨大地下壕の建設が始まったのはサイパン島陥落の1週間後、1944年7月15日、超特急工事で作り上げました。終戦を迎えた1945年8月15日までの約1年、戦況は悪化の一途をたどり、この地下壕と霞ヶ関の地下に潜った軍令部と連絡を取りながら、討論を重ね、命令を下したと伝わっています。戦艦大和が空襲を受け、沈んでいく様子が刻々と入ってきたり、特攻隊が相手にぶつかった瞬間に途切れる無線音を涙ながらに受信したそうです。
●究極の格差社会
「人間が人間としてではなく、機械の一部として扱われる」これもまた戦争の姿だったのです。人権を全く無視した「人間魚雷・回天」や「人間爆弾・桜花」など他の国に類を見ない恐ろしい戦法が採られました。また、戦死する人と絶対に戦死しない人が分類されています。この地下壕は近隣の民間人を空襲などから守ったという事実はありません。