第五福竜丸が語る!20世紀最大の環境汚染〜その2〜

重い放射能症と診断された23人の乗組員と第五福竜丸が今、人々に何を伝えたいのかを引き続きまとめてみました。

<水産業、大打撃>
アメリカ政府は、はじめ「死の灰」降下の事実を否定していました。科学調査の結果、船体のみならず、乗組員の身体と持ち帰ったマグロなどの魚まで全て放射能で汚染されていたことが分かりました。さらに、第五福竜丸ばかりか、他の1000隻近くの漁船の魚も放射能で汚染されていました。廃棄された魚の量は486㌧、その量は250万人分のマグロの刺身に相当します。日本人の食事は水産物に大きく依存しているため、日本国民は強い恐怖を感じました。こうして日本の遠洋漁業は麻痺状態になり、水産業は大打撃を被りました。その直後、日本のあちこちで原水爆禁止の動きが広まっていきました。この動きは世界へも広がり、翌年には広島で第1回世界大会が開かれました。
<乗組員の救済>
 ビキニ環礁水爆実験の事件当初、アメリカは「騒ぎすぎだ」という姿勢でしたが、第五福竜丸の無線長 久保山さんが亡くなったことを受け、補償交渉に入りました。そして、漁業補償ではなく、「直接被害者に限定する」「法律上の責任とは関係ない慰謝料」として1955年1月に総額200万ドルが支払われ、この問題は解決済みということで政治決着されてしまいました。123人、これは第五福竜丸の乗組員以外にビキニ環礁水爆実験で被災したとして治療費や手当てを受けた船員の人数です。船員保険の適用を受け、入退院を繰り返しながら給付を受けていましたが、船員保険法で認められた継続給付が60歳で期限となりました。その後、被爆者健康手帳の交付を申請しましたが、「原爆医療法は広島・長崎の原爆被爆者が対象」ということで、同じ核被害者でありながら却下されました。今もなお、被爆者健康手帳の交付の目途はたっていません。
<住民置き去りの核実験>
マーシャル諸島では1946年から1958年まで、67回もの核実験が行われました。しかし、マーシャル諸島に対し、アメリカが公式に核被災を認めているのは最大級(広島・長崎の1000倍)の水爆実験で、第五福竜丸などが被爆した「ブラボー」だけです。補償の対象はロンゲラップなどの四環礁に限られています。協定の補償枠は限られた情報だけで慌ただしく決められ、被爆者を限定するなど、日本への対応と同様でした。また、実験当時のアメリカの対応にも驚かせられました。実験の1週間ほど前にアメリカの行政官が島にやってきて、大きな爆弾実験をやることを伝えました。避難の必要はないかと村長が聞くと避難の許可が出ていないことを告げて去っていったのです。実験が行われると、ビキニ環礁の島々に死の灰が降り注ぎ、多くの島民と島の動植物、海中の生物が被爆しました。3日後、島からの避難指示がアメリカから出されました。そして、避難から3年後、安全が確認されたということで島へ帰ることができましたが、残留放射線や被爆した果物などを食べたなどによりさらに被爆してしまい、またもや移動することになり現在も島に帰れないのです。
<繰り返さないために>
 アメリカがビキニ、エニウェトク両環礁で行った67回の大気圏核実験は広島原爆の7200発分の量と言われています。放射線症に苦しむ人々、生まれた島に帰れずにいる人々がいます。そして、今でも目に見えない放射線は、食物連鎖から人間へ影響を及ぼしています。世界の海はつながっていますし、魚たちは自由に海を行き来しています。忘れてはいけないこと、これからの核や原子力のあり方を考えなければならないことを、今でも第五福竜丸は語り続けているのです。(Y子)